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Kosta Boda コスタ・ボダについてについて

コスタ・ボダの著名なデザイナー、Kjell Engman(シェル・エングマン)について

シェル・エングマンの作品は動物と音楽にインスピレーションを刺激された作品づくりが特徴。たゆみない活動を精力的に続けるビジュアルアーティストです。想像力は縛られることなく開放的で、物語への情熱が感じられます。 汎用ガラス食器とガラス芸術品の両方をうまく表現できる優れた作家です。音や光と組み合わせた巨大なインストレーション作品にも頻繁に取り組みます。 スウェーデン内外で、一般公開される作品を多く手がけています。 


Kosta Boda コスタ ボダ社

1742年スウェーデン南部のスモーランド地方で設立されたガラス工場「コスタ」に始まる。

名はスウェーデン国王カール12世配下の二人の将軍アンダース・コスクルとスタン・フォン・ホルステンの名前を組み合わせて作られ、ヨーロッパの現存するガラス工場の中で一番古い歴史をもつ。

その後、「ボダ」社との合併を経て71年社名を「コスタボダ」となった。

芸術性、カラー、デザインにおいて類を見ない特徴的なブランドとして世界中にファンをもち、スウェーデン王室の晩餐会でも使用されている。

マーベルルーシーアトウェルについて

マーベルルーシーアトウェル(Mabel Lucie Attwell)について:
1879-1964年。ロンドン生まれのイギリスの女性挿絵画家、イラストレーター、
1879年にロンドンで肉屋の10人兄弟の9番目の女の子として生まれました。
16歳ですでに絵の才能を発揮。彼女の描いた妖精や子供のイラストはすぐに完売しました
1908年、29歳でイラスト作家のハロルドセシルアーンショーと結婚。息子ピーターと娘部ギー(Peggy)2人の子供に恵まれました。
娘のぺぎーとモデルにしたぷっくりした愛らしい子供のイラストを数多く書き、これが大人気で、マーベルルーシーの代表的な作品となします。  
また、娘Peggy Wickman自身も成長してから母と同じイラストレーター(アーチスト)になります。
1905年~13年に、W.&W.Chambersの10冊の絵本にイラストを描きます。
そして1911年にはDundeeにあるValentine & Sons社のグリーティングカードとポストカードのイラストを描きました。
1918年にアトウェルのイラストの絵本Peping Pangyを描き、ルーマニアのマリー女王に献上。女王は彼女の絵を大変気に入り、ブカレスト宮殿にアトウェルを招待しました。

同年、アトウェルのイラストを絶賛した作家J.M.Barrieに頼まれて彼の作品のピーターパンと(妖精)ウェンディーの絵本にイラストを描き大評判になりました。
このようにして、世界的に有名になったアトウェルは、に、広告、ポスター、カレンダー、壁飾り、人形などを次々にデザインしました。
第一次世界大戦中(1919-25)には、戦地への手紙に数千枚の彼女のポストカードが使われました。
アトウェルの有名な男の子の人形Diddums(いいよ、という意味)はこのころに生まれ、欧米の保育園でそのお人形が使われています。
1937-38年には彼女の大ファンのマーガレット王女からプライベートクリスマスカードのデザインを依頼されます。
また、1943年には、雑誌ロンドンオピニオンに「Wot a life」というタイトルでコミック(漫画)の連載を始めます。
アトウェルのイラストを使ったシェリーの子供用の食器、ナーサリーシリーズは 現エリザベス女王が子供、マーガレット王女とチャールズ皇太子のために購入したので、大変有名になりまあした。
1930-40年代はマーベルルーシーアとウェルのふっくらとした愛らしい子供の イラストが大人気を博した黄金期で、あらゆるグッズが販売され、商業的にも大成功を納めました。
第2次世界大戦の終わった1945年、息子ピーターと一緒に暮らすため、 コーンウォールのFoweyに引っ越し、1964年、その地で85歳の傷害を閉じました。
現在もアトウェルのイラストは人気が高く、ポストカードに使われています。
古いグッズはコレクターズアイテムとして人気が高く、1900年代初頭の チャットバレー社のブリキのクッキーカンなどは高価なコレクションとしても有名で10万円を超える価値がついています。
シェリーのナーサリーウェアーもエリザベス女王が購入したこともあり、人気が高く、プレート1枚で5万ー10万円という値がついています。
キッチンアンティークでマーベルルーシーアトウェルのトフィーカンを販売しておりますので、そちらもご覧ください。

【フンメルドールのできた背景-M.I.フンメル-】


<center>シスターM.I.Hummel(ベルタ・フンメル)

1909年、ベルタ・フンメルという名の女の子がドイツのババリア地方に生まれました。
少女時代から芸術の才能に長けていたフンメルは、18歳のとき、父親とミュンヘンを訪れたことにより、さらなる芸術的発展を遂げる重要な一歩を進めたのでした。
ミュンヘン芸術応用アカデミーに入学し、その4年の間に驚くべき創造力を伸ばし、偉大な将来性が認められました。

しかし、戒律だけではなく芸術にも大きな重点を置いて修行を進めるジェッセン尼僧院の尼僧たちの影響を受け、1931年にアカデミーを卒業後、尼僧院に入りました。

マリア・イノセンティアと名前を変えた彼女は、貧しい尼僧院の収入を助けるため、彼女が描いた絵を展示・販売するようになりました。
そして、子供時代の思い出や遊ぶ子供達を描いた魅力的なポストカードが、フランツ・ゲーベルの眼にとまり、絵の中の子供達が立体化され、フンメルドールとなりました。
シスターM.I.フンメルは、37歳であまりにも短い生涯を終えましたが、今も世界中の人々の喜びのために、ゲーベル社のアーティストにより、ひとつひとつ手作業で見事な作品にされ、生活の詩として豊かに生き続けています。
フンメルの子供の絵はゲーベル社以外にイタリアのアンリ社が木彫りのフンメルドールを制作、販売しております。これは非常に生産量が少なく、滅多に見ることがありません。
また、世界一流のオルゴール会社、スイスのリュージュ社がふたにフンメルドールを描いたオルゴールを製造。質の高いオルゴールを飾るフンメルの絵柄は大人気です。

ミューラー兄弟について

ミューラーは、モーゼル地方(フランス東部、ドイツまでの一帯。戦争によって国境がよく変わったため、フランス国境内でもドイツ語が交錯する町です。ミューラー兄弟が生まれた時はドイツ領内でした)

モーゼル地方で生まれた男9人女一人、合計10人兄弟という大家族の兄弟贅員がガラス工芸作家という珍しい家族です。

当初、兄弟はフランスのクリスタルメーカーとして有名なサン・ルイガラス工場で働いていました。
しかし、普仏戦争(1870-71)がはじまったため、兄弟はフランスのリュネヴィルに疎開しました。

1885年頃兄弟のうち、デジレとウジェーヌの2人がガレの工場に入り、ガラス作家としての修練を積みます。また、他の兄弟もそれぞれガラス職人の研鑚を積むことになりました。

その後アンリ、ピエール、ヴィクトールは兄に続きガレの工場に参加し、当時最先端のガラス技法や様式を学びます。
ガレの工房では、工業地帯に近いこともあり、さまざまな薬品を使って最新の釉薬や技法の研究が盛んでした。

1895年アンリが独立し、リュネヴィルに工房を開設、兄弟全員が参加してガラス生産を開始したのが、ミューラーの工房のはじままりです。

製品の主流はガレのようなカメオグラスで、一部エナメル彩色のものも製造されました。この頃のデザインはアールヌーボー様式です。

1906年デジレとアンリはベルギーのヴァン・サン・ランベール工場に招かれデザインを担当しまし。しかし、1914年にサラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけに第一次世界大戦がはじまり、主にドイツ東部が戦場になったため、戦線に近い工場をさけて兄弟は離散します。
ウジェーヌは戦死しましたが。戦後他の兄弟はリュネヴィルに戻り、1919年,第一次世界大戦終了とともに、にクロワマールの工場を買収し、1936年まで製作が続けられた。
第一次大戦後はアールデコと呼ばれる様式が主流となり、幾何学的なモダンデザイン、工業生産がしやすいデザインが増えます。肉厚でフロストガラスにモダンな幾何学レリーフを施したミューラーのランプのスタイルはこの頃から1930年代に多く作られました。

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